1990年代,日本ではポピュラー音楽は全盛期を迎えていました。小室哲哉や坂本龍一などの天才といわれる作曲家たちがシンセサイザーを世に放ち,B.B.クィーンズやB'zやTUBE,T-BOLANやZARD,FIELD OF VIEWなどのBeing系と呼ばれる歌手たちが次々に登場し,R&B界では宇多田ヒカルなどが次世代の音楽を作り上げていました。
そして彼らの音楽には一つ大きな特徴がありました。
それは,「彼ら以外マネできない」という限定性です。
この限定性は音楽の稀少性を支える大きなポイントでした。
しかし,この性質は大衆が音楽に足を踏み入れることへの敷居の高さになっていると感じる人もいました。
その一人が小室哲哉です。彼は,当時ブームだったディスコやカラオケで気軽に楽しめる曲が必要だと考え,大きな可能性を見出しました。
そしてダンスミュージックやシンセ的グルーブを特徴とする小室ファミリーが台頭していくわけです。
このいわば革命ともいえる流行は,音楽界の方向性を大きくシフトしました。
「音楽的な技術がすべてではない」時代が訪れたと言えるでしょう。
この傾向はとても大きなメリットとデメリットを両方含んでいました。
音楽的技術がすべてではないということは,すなわち音楽がほかのエンターテイメントと融合するきっかけとなりました。
しかし同時に,音楽の専門家の希少価値を下げてしまうことにもなりました。
例えば郷ひろみなどの初期のジャニーズ歌手は,その歌唱力やパフォーマンスだけでなく,作詞家が書いた歌詞,作曲家の書いた曲が大いに評価され,その側面についての大衆の認知度も高かったのですが,現在では歌詞ひとつとっても専門の作詞家として名が知れている人物はあまりいません。このように,大衆に身近なものになるということはすなわちその職業の専門性が軽視されやすいということです。
敷居が低いということはすなわち,過去なら業界に足を踏み入れることすら叶わなかったような人が入っていけるということです。
その結果開花する人もいれば,単に全体のレベルが下がることもあるでしょう。
誰でも簡単に始められる世の中というのは,可能性を開花させることができるという観点からすれば大いに有益でよい傾向ではありますが,同時にその業界全体の信頼を損なうことにもなるのです。
(ひどい言い方のように思えるかもしれませんが,ここでは稀少価値という観点のみから語っています。)
しかし,この傾向にも現在変化が訪れていると感じています。
ニコニコボカロ系という音楽ジャンルは,そもそも人が歌うことを想定せずに作られる歌も多く,まさに制作者の力量が問われ,
また「彼ら以外はマネできない」と言えるようなテクニックを持った人しか歌えないようなものも多いわけです。
では「敷居が低い」ことがすべていいのか?
僕は理想は,「誰でも足を踏み入れることができる」ことと「技術で勝負していく」ことの両立だと考えています。
今は誰でもプロの機材に劣らないものを用意できる時代です。そしてプロさながらの環境で音楽を楽しむことができます。
しかし,プロとアマチュア(プロ並みに経験を積んでいる人は除く)の違いというのはどうしてもありますし,無くてはならないものだと思っています。
なぜなら,プロがアマチュアと同じレベルならもはやそれはプロではないしプロを名乗る意味もないからです。
誤解しないでほしいのは,アマチュアがプロの域に達することができる環境を否定しているわけではないということです。
むしろ僕が言いたいのは,アマチュアと一線を画したところにいる人のことをプロと呼ぶのではないか,という,概念の再確認です。
プロでないとできないことができることこそ,プロのプロたる所以ではないかと思うわけです。
もちろんここでの「プロ」とは,「それを職業にしている人」という意味ではなく,「プロフェッショナルな人」という意味です。
つまり「プロでないとできないこと」というのは,「プロだからこそやるべきことをきちんとやっているからできること」という風に言い換えることもできるでしょう。
逆に言えば,アマチュアがプロになるためにはその一線を超えなければいけないということです。
「カラオケに行く前の日はお酒を飲まない」と決めている人はあまりいないでしょう。
しかしプロの人の中には,「歌手になるためにタバコをやめた」みたいな人は沢山いるわけです(そういうタイプの努力はしてない人ももちろんいます)。
専門家の価値というのはまさにここにあります。
つまり,真の専門家とは,専門家であるための覚悟を持っている人と言えるかもしれません。
「自分たちにしかできないことがある」という信念を捨てないこと。
これは音楽に限らず,広く言えば生き方についても言えることです。
自分の人生の専門家になるという見方をすれば,自分自身を深く研究し,一生に責任を負うという覚悟が必要です。
つまり,覚悟を持たない専門家が自らの稀少性を下げるのならば,人が「人であるための覚悟」というものを忘れてしまう時に人の存在意義は見失なわれてしまうのかもしれません。
「人であるための覚悟」とは何でしょうか。
自分の人生に責任を持つこと,ともいえるかもしれません。
人の脳みそは単なる計算機ではないのです。
必然性を持たない選択を自分で下すことができます。
コンピューターの乱数だって,じっさいには100%ランダムなわけではなくて,じつは必然性をもった疑似乱数と呼ばれるものなわけです。
人間にしかできないことがある。
いや,
自分にしかできないことがある。
そう信じ続けること,
それが「覚悟を持つ」ことかも知れません。
そんなことを考えているこの頃です。